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いつもの電車のいつもの席に座っていると、目の前にサラリーマンらしい二人の男性が座った。
40才ぐらいの上司らしい男性は、鞄も何ももたずに座っている。 20代ぐらいの若者は、小さな鞄をもち、中から手鏡を出して見ながら髪の毛をさわり始めた。 「出身地と性格って関係ありますか」と若者。 「それはあるよ。四国とか九州の人はおおらかだよ」 「そうですね。社内の人を見ても分かります。でも、新潟出身の人は性格に共通性がないじゃないですか」 「新潟は広いから、山もあるし、谷もある。国のリーダーの出る地形というのがあるんだよ」 「なんですか、それは」 「名古屋付近は、海があり視野が大きくなり、志が大きくなって、大胆になれるから将軍など多くのリーダーを輩出している。山の中の代表格である武田信玄は、天下を取れなかった。山の中で育ち、慎重な性格だったからだ。石橋をたたいて渡らず、ついには石橋を壊してしまったんだよ」 「なるほど」と若者は言ったが、山の中で育ったらしい彼の顔は、「自分はだめか」という表情だった。上司はそれに気づかないで、話を続けていた。 朝の通勤列車の中で、歴史と地理を語り合っているのは、ほほえましいと思ったが、若者に「あなたはリーダーになれる資質をもっているよ」と言ってやりたかった。 ▲
by yuyz
| 2008-03-31 21:42
| 大学内
研究室の机の上に、辺見英著の「Cの受難」という本があった。
准教授の高橋辰宏さんがくれたのだろう。彼とこの小説の話をしたことがある。 戦後間もない小学校での予防注射の場面からはじまる小説だ。 やがて、お腹が膨らんだ肝臓ガンの患者と家族、医師との関係が藤沢周平の小説を思い出すようなリアリティーのあるタッチで描かれている。 あまりに見事な描写で、貧血気味になり気持ちが悪くなった。 小生は、子供のころから身体の中の写真や絵を見たり、それに関する話を聞くと貧血気味になる。何度か経験しているので、今回もそうなっている自分に気がついた。途中で、読むのを止めた。 しかし、また読みたくなり、しばらく読むが、気分が悪くなり、読むのを止めた。この繰り返しだ。 もう一つ、気分が悪くなるのには理由がある。 小生の父親は、46才のとき、お腹を大きくパンパンに膨らませて、肝臓ガンでなくなった。小説を読みながら父親のことを思い出した。 当時は、「親父は酒を飲み過ぎて、肝臓ガンになった」と信じていた。父親の様子を見て、小生もそうなるんだろうなと信じ込んでいた。 46才になったとき、肝臓ガンになってない自分に不思議な感じがした。なんとなく、肩の力が抜け、余分な人生をもらった気がした記憶がある。 しかし、いつか肝臓ガンで死ぬのだろうなという思いは消えてはいない。 この小説によると、父親はだぶんC型肝炎ウイルスに感染し、肝炎を起こして、肝臓ガンになったと思われる。 自分の肝炎ウイルスはどうだろうと心配しながら、人間ドックのレポートを取り出してみた。 HBs抗原とHCV抗体が陰性。すこしホッとした。 小説に出てくるアルブミンの値を見てみた。4.7とあった。肝機能も大丈夫のようだ。 総ビリルビン値を見てみると、1.0だった。自分は黄疸だ(親からそう言われていた)と思っていたが、小説に出てくる数値と比較すると心配はなさそうだ。 辺見英(山形大学の同僚の河田純男理事のペンネーム)氏の小説は、迫力があり、読んでいる間は気分が悪くなったが、自分の肝臓ガンへの心配がかなり晴れた。 精神的不安定さを取り除いてくれた小説だ。河田先生、ありがとう。 ▲
by yuyz
| 2008-03-30 18:15
| 私事
Maguire Asssociates というコンサルタント会社の社長夫妻が山形大学に来た。
1970年代に米国の多くの大学が入学者減となり、大学の倒産や合併が盛んだったときがある。そのときに、ボストンカレッジも、他の大学と同様に入学者減となり、財政危機になったらしい。 当時、理学部の教員だったMaguire氏は、入試部長として活躍し、大学の経営の安定化に貢献したそうだ。 彼は、その後に自分でコンサルタント会社を作った。そして、彼らは主に米国内の多くの大学を訪問し、聞き取り調査をしながら大学経営のアドバイスをしている。 今回は山形大学の入試対策のために、本学のEM(エンロールメント・マネジメント)室がこの会社にコンサルタントを依頼したらしい。 学務関係の教員、学長と理事、学生、学務部の職員、EM室の職員にインタビューをし、最後に調査報告をした。 日本の大学とアメリカの大学との違いが大きく、その違いの理解に多くの時間をついやしていた。 「日本の大学は文部科学省によって入学定員を厳格に管理されている」という事実はアメリカ人に理解しにくい。 アメリカでは入学者数に対する考え方は大学により異なるからだ。アメリカの大学はエンロールメント(在籍学生数)をもっとも気にしている。 また、アメリカの大学ではお金の使い方や資産の活用に対する制約は少ない。 そんななか、日本の大学の入学定員の厳密さやお金の使い方の自由度がないことに対する理解に、彼らは苦しんでいるようだった。 彼らの調査報告では、 ○本学の学生募集組織と入学試験組織とが分離しているのは山形大学の特徴である。 ○学生募集の方法をホームページ、電子メール、電話など多様な方法を導入してはどうか。 ○入学したいと思う学生の声を聞き、それを基にして山形大学のブランドを作り、広く普及させたらどうか。 ○入学後の6週間が非常に重要だ。履修支援と生活支援などをして、学生と大学との精神的距離を短くしたらどうか。 ○卒業生との関係を密にした方がよい。 など常識的なことであった。 入試対策に王道なしということか。 今回は通訳を入れての会話。やりとりに間が空いて、話をつないでいくのが難しいと感じた。 ▲
by yuyz
| 2008-03-29 07:49
| 大学内
社会連携担当の黒田氏が退職して東京に行くという。
数年前、彼女が本学に就職してまもなくのころを思い出した。 小生がベンチャー・ビジネス・ラボラトリーのラボ長をしていた頃である。本部の会議に出席するようにと書類がきた。 その会議に出席すると、当時の副学長が議長で、議題は「大学と地域の連携に関するシンポジウムの実施」であった。 小生は、「シンポジウムは意味がないから止めましょう」と提案した。 議長からは「すでに文科省から予算がきているから実施しなければならない」と却下された。 シンポジウムを実施しなければならなくなった。 そこで、小生は「市町村の人々を大学に来させて、シンポジウムを聞かせるというのは、大学のわがままだ。44市町村(当時の数)に我々が出向いて、そこでマイクロシンポジウムをやってはどうか」と再提案した。 しかし、議長からは再び却下された。 その上、「実行担当は一番若い小山さんがやるように」ということになってしまった。 会議が終わって、事務室に行くと、目の前に一人の事務官がいた。そこで、小生は「あなたがこのプロジェクトのヘッドだ」と宣言をした。彼女はなにを言われたか分からなくて、きょとんとしていた。(実はシンポジウムが終わってから分かったのだが、シンポジウム関係の担当事務は彼女の隣りのセクションだったそうだ。小生は誤解して指名したことになる) 米沢に帰ってから、当時の黒田氏の上司のO室長とY係長とに電話して、「シンポジウムの実施は小山が担当することになったが、実質上のボスは黒田氏だ。このプロジェクトに関する限り、あなた方は黒田氏の指示にしたがうように。そして、黒田氏が動きやすいように配慮してほしい」とお願いした。 彼らは、「小山はまた何を始めるんだ」と不可解に思っただろうが、破天荒な小生のお願いに対して、とにかく良く協力してくれた。 やがて、黒田氏はスケジュールや会場を決定し、小生達は彼女の指示で、山形県内44市町村をまわって、ご用聞きをした。 小生にとって、町役場などへの訪問は初めてであり貴重な経験だった。ある町役場では「何しに来たんですか。大学が我々に何をしてくれるのですか」と厳しく問いただされた。 シンポジウムのタイトルを置賜弁を使って「おらほの大学なじょすっぺ」とすることにしたら、副学長や他の委員からクレームがきた。ふざけているというのである。副学長は会議を開いて、タイトルの協議をすることになった。さんざん議論した末、議長の仲裁で「おらほと大学なじょすっぺ」と決まった。小生は不満だったが、決定にはしたがわなければならない。 シンポジウムが始まって、一人のコメンテーターから「『おらほと大学』では、『おらほ』と『大学』が対立関係にありだよろしくない。大学はもっと市民の中にとけ込まなければ真の連携はできない」と指摘されたときは、我が意を得たりとうれしかった。 「だからタイトルを『おらほの大学なじょすっぺ』としたかったのに」と。 ともかく、黒田氏のリーダーシップで、シンポジウムは成功し、楽しい反省会をした。 東京で頑張ってください。黒田さん。 ▲
by yuyz
| 2008-03-27 21:52
| 大学内
会議日。
役員会では、 1、国立大学法人山形大学におけるリスク管理に関する基本的考え方。このとき、リスクとは、経済的損失や人々のこおむる苦痛を含む損失、あるいは本学がその目的を達成することを妨げるおそれのある事象の潜在的可能性などをいう。 2、平成20年度長期資金の借り入れ。病院の改築など15億円の借り入れ。今後の返済では、年間16億円にもなることがある。 3、山形大学事務組織規則の一部改正。 4、国立大学法人山形大学職員安全衛生管理規則の一部改正。 5、キャンパスハラスメントの防止などに関する規則。 6、職員の降格・解雇などの規則改正。 などが主な議論。 経営協議会では 1、平成20年度予算案。120億円の運営費交付金、自己収入は159億円。 2、平成20年度長期資金の借り入れ 3、平成20年度計画 4、退職金規則などの改正 5、資金運用。年間3700万円の利益収入があった。 6、病院の損益。600床の病床が9割程度の稼働率。外来は一日、1000人程度。黒字基調である。 7、規則の見直しにより。基本的規則を7件に、規程を232件に、細則を75件にした。また、経営的な規則類には「国立大学法人山形大学」を、教育・研究関係には「山形大学」を使用した。 などが議題。 午後遅くは、ヤマザワ教育振興基金の寄贈式。100万円分の教育機材の目録をいただいた。 この基金は設立してから15年目。山澤進氏が設立した財団である。今回は、本学の他に、山形商業高校、山形北高校、山形第六中学校が授与された。いずれも、スポーツの振興についてのサポートである。 寄贈式の後、会長室でしばらく話をお聞きした。山澤氏は山形商業高校を卒業後、東北薬科大学を卒業し、東北大学の非水研で研究された。その後、薬局を、そしてスーパーマーケット「ヤマザワ」を設立した人。現在は山形商工会議所会頭である。 会長室では、ご自身の本の話、縮れ麺の作り方の話、薬剤師試験の話などをお聞きした。 夜は、米沢でシドニー大学のHoward See 教授を迎えての懇談会。 See教授は、エレクトロレオロジーの研究者。 最近のオーストラリア状況や、レオロジー研究の話に花を咲かせた。 ▲
by yuyz
| 2008-03-26 23:23
| 大学内
8時15分、黒塗り公用車が自宅の前に止まった。今日は、山形での卒業式(人文学部、教育学部、理学部、医学部)。工学部長の車に便乗させてもらう。
山形県民会館での卒業式の、開始前の騒然とした雰囲気は米沢での卒業式以上だった。「全員起立」の声で、なんとか静かになった。 会場は、1122名の卒業生と修了生で、一杯だった。卒業生と修了生の関係者の多くのみなさんには会場の外で待機していただかざるを得なかった。卒業生のご家族にはさぞご不満だったことと思う。申し訳ありません。 学位記の授与、学長の告辞、蛍の光で式が終了。蛍の光の歌声は学生達の方からはほとんど聞こえなかった。 小生が工学部長のとき、やはり学生が蛍の光を歌わないので、米沢での卒業式では歌を歌うのは止めた経緯がある。 卒業式の後の祝賀会は、人文学部に出席した。阿子島学部長は、「卒業生のみなさん、山形大学を卒業したことを誇りに思い、自信をもってください」と挨拶をされていた。小生は、そうだそうだと双手をあげて賛同していた。 後援会長は、『かきくけこ』で仕事をしなさいと話されていた。『か』は確認すること。『き』は記録をとること。『く』は工夫をすること。『け』は計画を立てること。『こ』は、行動をすること。 はじめて聞く話であったが、なるほどとおもった。 その後は、大学にもどり国際センターと学生センターを中心として、歩いた。 ある事務の人から、「学長裁量経費の判断基準はなんですか」と問いかけられた。 「学長裁量なので、我々が考える問題ではない。学長ご自身がそのときの必要性で裁量されることがらだ」 「平等性を考えなくて良いのですか」 「我々は平等にしようなどと考えなくても良い。学長はきちんと考えてくれているよ」 との会話をした。 夜は、将来構想会議を山形で開催。色々な建設的な意見がだされた。 ▲
by yuyz
| 2008-03-25 22:19
| 大学内
朝のコーヒータイムの話題は、知財本部、報奨金、リスク管理、評議会の運営方法など。
優秀学生の表彰金や外部資金を多く獲得した人への報奨金などの制度を作ろうとの方向になった。しかし、これらのための現金を運営交付金からは出せないとのことだった。運営交付金は税金だからだめだという。 では、「授業料などの自己収入から出せないか」との質問に対して、これも運営費交付金と同じ扱いだからだめだという。 法人化して、企業会計を大学に適用することになっているが、制約はまだまだ大きい。 その後は、山形県庁の課長補佐が来て、山形県と山形大学との人事交流についての打ち合わせ。4月から県庁職員が2名、山形大学に派遣される。その方達の活動についての方針を決めた。 県庁の窓口は商工労働観光部と文化環境部。 山形大学での配置は地域共同研究センターとVBLである。 夕方は、米沢で共同研究などの打ち合わせ。夜は、J社の人たちとミートピアに行った。 彼らのグループは年度末にもかかわらず出張旅費にまだ余裕があるとのこと。どうしてかと聞くと、「昨年度は大きなグループだったので、配分された旅費は大きかった。今年はグループが小さくなったのだが、旅費の配分は昨年度のままだ」とのこと。 さすが、歴史のある大会社だ。我々の国立大学当時と類似したスタイルだなとおもった。 小生が、図書分館長をしていたころ、中央図書館が増改築された。しかし、増改築した図書館の半分近くの電灯をつけることができなかった。電気代が改築前の使用実績で配分されたので、全部の電灯をつける余裕がなかったのである。 増築したら、電気代が多く必要になるのは分かっているのに、電気代の増配分への配慮は・・・なかった。 何事も前例にしたがえば、考えなくても良いから楽だが、現場は常に変化している。その変化に対応して予算の配分なども変わっていく必要がある。 山形大学は法人化して、この予算配分の点では以前よりかなり変わってきたが、前例に従う習慣はまだ色濃く残っている。 ▲
by yuyz
| 2008-03-24 23:07
| 大学内
「こうぜんを持って行きたいんだけど」と秘書の人に頼んだが、彼女はきょとんとしていた。
何回か、似たような経験をしているので、すぐ分かった。「こうでんを持って行きたいんだけど」と言い直したら、「分かりました」と答えが返ってきた。 山形に来て、40年にもなるが、生まれ故郷の言葉が出てしまう。 和歌山の方言では、『ざじずぜぞ』と『だぢづでど』とが区別がつかない。 昔は意識をしなかったが、ワープロが出始めたころに気がつかされた。 ワープロで、「でんりゃく」と打ち込み、漢字変換すると「前略」が出てこない。 「このワープロはだめだ」と何回思ったことか。 類似の経験を繰り返すうちに、やがて、「でんりゃく」ではなくて、「ぜんりゃく」なのだと分かってきた。 十数年前に、司馬遼太郎の「この国のかたち」を読んでいたときに、「和歌山の方言では、『ざじずぜぞ』と『だぢづでど』との区別がつかない」と書いてあったので、自分だけではないのだと喜んだ記憶がある。 そこで、今回自宅の本棚から「この国のかたち」を掘り出してきて、読み直しはじめたが、なかなか和歌山方言の『ざじずぜぞ』と『だぢづでど』との区別がつかないことが出てこない。 「この国のかたち」に出ていたという記憶は、間違っていたのかなあと思い始めた。ついつい、アルツハイマーが始まったかなと憂鬱になる。 ▲
by yuyz
| 2008-03-23 17:17
| 私事
天気が良く、外を歩いていると、大場工学部長から電話があった。「今どこを歩いていますか」と。
山形大学工学部の学位授与式は米沢市立体育館で挙行される。小生は、自宅から会場まで歩くつもりで家をでた。 ところが、工学部長は、歩くのはかわいそうだと思い、公用車で拾ってくれるとのこと。大沼デパートのところで黒塗りの車に乗せてもらって会場へ行った。 式場はすっかり準備されており、学長もすでに到着していた。座席表を見ると卒業生と修了生とで総勢1043名だった。 例えば、物質化学科を見ると、学士は172名、修士は57名、それに博士がいる。一つの学科が他の一つの学部の大きさに相当する。 式場に入ると、体育館の一階は学生で少々ごったがえしていた。二階は保護者の方などでほぼ一杯だった。 ざわざわした雰囲気の中で、石井事務長が「みなさん、起立してください」とアナウンスした。全員が起立すると同時に静粛が式場の中を支配した。卒業式の始まりだ。 各学科と各専攻の代表に学位記が渡された。 学長は、告辞で「ものづくりの大切さ」を語られた。さらに、「知の体系化を心がけて、人と人との交わりを大切にし、健康に十分に留意するように」とことばを述べられていた。学生は、「世の中の変化に柔軟に対応して頑張ります」と答辞を述べた。 卒業式後半では、優秀学生賞、最優秀学生賞、米沢工業会賞、ベストティーチャー賞が授与された。 卒業式直後の祝賀会がグランドホクヨウ米沢で開かれた。大場工学部長は「感謝の心」、「情熱」、「読書」の三つをテーマに、送る言葉をあつく語っていた。 ▲
by yuyz
| 2008-03-22 20:36
| 大学内
今日は、プラスチック成形加工シミュレーションを業とする会社(A社)の株主総会と取締役会だった。小生はこの会社の社外取締役をしている。
主な仕事は、2ヶ月に一回程度、取締役会に出席して質問をし、意見を述べること。取締役会に出席していると、企業と大学との経営の類似点や相違点がはっきり分かる。その点で、非常に勉強させていただいている。 ところが、昨年は、A社の社長ら執行部と大株主である親会社との間で経営方針に関する考え方のすれ違いが起こり、その調整役をすることになってしまった。A社の執行部の方針や社内の雰囲気を親会社の社長のC氏に伝え、さらに大株主としての親会社社長の意向をA社の執行部にフィードバックする役割である。 何回かの意見交換の後に、社外取締役として小生が下した最終的な決断は、「A社の社長交代」であった。 A社の社長のB氏とは長年の親友であり、彼は実に見事に会社経営をしていた。しかし、彼の経営方針については親会社の社長の理解が得にくい状態にあった。小生はB社長に退任するよう説得すると同時に、親会社のC社長にも理解を求めた。 それに対して、親会社のC社長はA社の次期社長の人選を小生に依頼してきた。条件は会社の業務内容を理解し、今のA社を統率し、経営に専念して当たれる人。小生は数人の候補者を頭に思い浮かべながら、何人かと話し合いをした。その結果、やはり新社長となったD氏しかいないとの結論に達し、それらを親会社のC社長に説明した。 少しのやりとりがあったが、昨年末にはA社と親会社との間の合意がなされ、今年の正月から新体制が発足している。 社外取締役になったとき、「小生の最大の役割は、その時が来たら社長に辞職勧告することかな」と思っていたが、結局それが現実になってしまった。 新執行部が順調に行くのを確かめてから、小生も社外取締役を退任したいと思っている。 ▲
by yuyz
| 2008-03-21 21:49
| 出張
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