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今朝、目が覚めたら8時を過ぎていた。
「えー!!!」 あせった。 落ち着いて、頭が動くようになってから、「今日は米沢だ」と、少しホッとした。 こんなことは、滅多にない。 ある程度歳をとってから、早朝覚醒症になった。朝早すぎる目覚めは常に経験していたが、遅くまで爆睡したことはあまりない。 「時差ぼけかな」 午前は、文部科学省のプロジェクトの書面審査。 まず、分厚い審査手引き書に取り組んだ。ここですでにくたびれた。 つづいて、申請書。細かい字で隅から隅まできっちり埋め尽くされている。老眼にはきつい。 背中が張っていたので、接骨院へ。 「今日は、背中がずいぶんとひずんでいますね。ごつごつと手にあたりますよ。何があったのですか」 「そうですね、飛行機の長旅が効きましたかね」 会話をしながら、背骨のひずみを直してくれた。 すこし、身体が軽くなったように感じる。 午後は、研究室。 学生と進路についての話し合い。 その後、工学部広報室の青木さんからのインタビュー。 指定された部屋に行くと、背景として山形大学旗が、そしてビデオカメラがセットされていた。 部屋中に緊張感がみなぎっている。 これは、まずいと、冗談を言ってみるが、インタビュアーががちがちに緊張している。 「えぬいーでぃーおーとは何ですか」との質問から始まった。 これがよかった。 「NEDO、われわれはこれを『ネド』と呼んでいるんですよ」と、リラックスして始められた。 つづいて、研究のこと、理事、副学長の仕事のこと、企業との包括連携、工学部の将来、などについて質問された。 若者が相手なので、なるべく分かりやすく話をしたつもり。 最後に、「ありがとうございました。ところで、申し訳ないのです、今日のインタビューのごく一部しか、使えないんですがよろしいでしょうか」 「もちろん、OK。自分が気に入ったところだけを使えば良いよ」 その後、眼科の定期健診へ。 「今日は、眼底を見ますので、瞳孔を拡げる目薬を使います」と言って、目薬をさされた。 そして、『OCT(Optical Coherence Tomography)』なるものを撮影。 診察中に、見事な視神経や網膜の断層像を見せてくれた。 さすが、山形大学発の技術だと、自分の緑内障のことより、画像の美しさに頭がいってしまった。 #
by yuyz
| 2009-03-10 21:50
| 私事
3月2日
インペリアルカレッジへ。 建物に入ると、写真が並べてあった。 よく見てみると、物理学科長の写真だ。流体力学で有名なストークスや、ブラウン運動で有名なチンダルなどの写真もあった。 そこに、これから訪問するブラッドレーの名前が二つあった。一つは、本人らしいが、一つは父親らしい。 本人の写真と父親の写真。 約束の10時まで時間があったので、キャンパス内のコーヒーショップでカプチーノとパンの朝食。 10時に研究室へ。学部長は、我々のために会議室を取ってくれていた。そこに落ち着き、まずは訪問の趣旨説明。 彼の父上は、インペリアルカレッジの物理の元教授で元学部長。彼自身もインペリアルカレッジの物理の卒業。奥さんも物理の卒業だとか。 大学院はケンブリッジのキャベンディシュに行き、博士号を取得した後日本に来て、東芝で一年働いたとのこと。 その後、シェフィールド大学を経て、インペリアルカレッジの教授になった。学科長を3年勤めた後、1月から学部長になった。親子で同じ大学の学部長。 現在、46才で、英国のロイヤルソサイアティの会員(FRS)。血統が大事にされるイギリスの典型か。フレデリコに言わせると「ロイヤルソサイアティは『マフィア』」らしい。つまり、「親類や友人の集まり」。 子供が3人だが、「物理には行かない」と言っているとか。 「で、何学科希望か」と聞くと、 「数学」 学部長はあまり多くを語らず、学科の教授たちを次々呼んで、彼らの研究を紹介させた。1人当たり30分から1時間程度。お昼も、サンドイッチを会議室に差し入れてもらい、休みなしで、5時間ぐらい缶詰になった。 小生は、礼儀もあるので、矢継ぎ早に質問をした。 訪問を終えたときは、ぐったりと疲れた。 その後は、ハイドパークへ逃げ込んだ。。 ちなみに、ハイドパークの『ハイド』は人の名前だそうだ。19世紀前半に、産業革命後、多くのイギリス人は朝早くから夜遅くまで働いていた。それは人間らしくないとハイド氏は考え、市民の憩いの場所を作ったとか。それが、市民に受け入れられ、それ以来、あちこちの町にハイドパークができた。 そう言えば、リーズにもハイドパークがあった。 夕食は、ロンドン滞在中の黒沢先生を呼び出して、3人でスペイン料理を楽しんだ。 途中で、フレデリコが「今日は小山の誕生日だ」と言い出した。 「いや、誕生日は明日だよ」 「ロンドンは2日でも、日本ではすでに3日になっている」 「なるほど」 「OK、誕生パーティーだ」 とのことになり、3人でワインを3本も空けてしまった。 泥酔して、ホテルに帰り、爆睡した。 次の日は、ヒースロー空港からJALに飛び乗った。 飛行機の中では、突然、4人のスチュアーデスに囲まれた。 何をされるかと、身を固くしていると、いきなり、「誕生日おめでとうございます」。 びっくりしているうちに、『Happy Birthday』の合唱が降ってきた。 まいったなー。恥ずかしい。 「まあいいか。みんなに自慢できるし」と観念した。 #
by yuyz
| 2009-03-09 22:53
| 出張
3月1日は移動日。
リンツ空港までタクシー。来るときよりも2ユーロ安かった。 我々の乗る飛行機は「ゲート4」と掲示が出ていたので、ゲート4に行った。ぱらぱらと人がいる。隣のゲートはデュッセルドルフ行きでたくさんの人。 搭乗の時刻になっても、職員が来る様子はない。アナウンスに耳をすますが、ドイツ語でわからない。 さて、久しぶりに困った。 フレデリコが、オーストリー航空の職員を探しに行く。 彼はあわてて帰ってきて、「ゲート1です」 走っていくと、職員しかいなかった。我々は最後の2人だったらしい。 小さな飛行機に乗ると、満員だった。 ウィーンの飛行場で、順調にヒースロー行きのゲート8にたどり着いた。 「OK。これでロンドンだ」 ところが、搭乗口の女性が、小生を通さない。 「なぜ?」 「EUに入ったスタンプがパスポートにない。どこからEUに入ったのだ」 「2月24 日、ヒースローだ」 「でも、ヒースローでの入国スタンプがない」 「小生の責任ではない」 でも、彼女はてこでも小生を乗せてくれないようだ。 フレデリコがあわてて飛んで来て、滝のように次から次へと英語でまくし立てた。 しかし、彼女は動かない。 「困ったなー。今日はロンドンへは行けないか」とパスポートをめくっていると、ヒースローの文字を見つけた。 「これでは駄目なのか」 「おー、ここにあったか」と彼女は言って、ようやく飛行機に乗せてくれた。 オーストリーは、入国のときに何もスタンプを押さないくせに、出国のときだけ厳しいんだなーと、不満に思った。 #
by yuyz
| 2009-03-08 22:29
| 出張
26日は移動日。
まず、リーズ空港へ。 そして、ヒースロー空港で、国際線へ。 ウイーン経由で、リンツ空港に着いた。 リーズ、ヒースロー、ウィーンの3つの空港で、荷物検査。毎回、パソコンやシャンプーなどをカバンから取り出し、スーツを脱ぐ。ベルトをはずし、靴まで脱がされる。 リンツ空港からタクシーでゾンマーホテルへ。ホテルに着いたのは、夜の11時ぐらいだった。 長い一日の移動が終わった。 27日、朝9時、リンツ大学へ。 サリシフティ教授が、小生を待ちかまえていた。 挨拶をするまもなく、ミーティング室へ連れて行かれた。 部屋には約30人の研究員。週に一度の打ち合わせ日らしい。 まず、新人のボスドクの紹介。ボローニャ条約による博士課程の紹介もあった。つづいて、学会のニュースなどが紹介された後、今週でここを去ることになっているイタリア人のボスドクの発表があった。 最後に、サリシフティ教授は小生とフレデリコを紹介した。 特に、「日本人の小山は、イギリスのリーズ大学の研究員を随行させている」と、フレデリコと一緒にきたことに興味を示した。 小生は、まず、世界地図を見せて「日本では世界地図の中心が日本である」と説明。爆笑。 つづいて、山形大学の概要、高分子関係の研究の紹介、国のプロジェクトの状況などを説明した。 教授室にもどってから、彼の今までの研究歴、現在の研究環境、研究室の面積、研究員の数、研究費、サラリー、今後の研究計画、日本で研究する可能性、家族状況などを聞いた。 彼は、トルコ人だが、大学を出て音楽のプロになろうとしてオーストリーのウイーンに来たそうだ。音楽の専門学校を受験したそうだが、残念にも落ちたとのこと。 そこで、彼は『ムジーク』に似た音の『フィジーク』の大学院に入ることにしたとのこと。 卒業後、アメリカで研究し、なんと、35才のときに、リンツ大学の教授に招かれた。当時の新聞を見せてくれた。 オーストリーには、日本の学科に相当する『インスティチュート』なるものがある。彼は、物理化学のインスティチュートのチェア教授とのこと。3人の助教授と3人の技官、2人のセクレタリ、20人ぐらいの博士研究員、数人の博士課程の学生でインスティチュートを構成している。 また、彼は研究の起業化に非常に熱心で、インキュベーション室を研究室の片隅に置いていた。ソーラーバッテリーの会社などがこのインキュベーション室から発足したと自慢。 さらに、数年前にトルコの科学賞を、そして昨年オーストリーの科学賞をもらったと、トロフィーを見せてくれた。 そこで、「次は、日本の科学賞にチャレンジしたらどうか」と言うと、一瞬ひるんでいた。 昼食は、キャンパス内の食堂で典型的なオーストリー料理というのをご馳走になった。 その間、サリシフティ教授はフレデリコに「小山とはどんな関係なのか、どうして小山についてきたのか」としつこく聞いていた。 フレデリコは「私はイスラエル生まれで、チリ育ち、高校と大学はフランス、最初の職場はオランダで、今はイギリス。専門はレオロジーで、小山と同じ専門。小山に頼まれたから来た。あなたが日本に行くなら私も行っても良い」と返事。 サリシフティ教授は、エネルギー問題に話題を変え、「チリは風力発電に向いている。風が強いし、人のいない場所がたくさんある。日本は風力発電は海の上でやるべきだ」と風力発電に熱心だ。 「ソーラーバッテリーはエネルギーとしてはどうか」と質問すると、 「電気の問題は輸送と貯蔵。ソーラーバッテリーは使うところで発電できる。貯蔵は水素が良いという人がいるが、水素の貯蔵は現実的ではない。したがって、ソーラーバッテリーでも、問題はエネルギーの貯蔵だ」 午後は研究室を案内してくれた。 それほど目新しいところは無かった。研究室で働いている研究員にもあまり魅力を感じる人がいなかった。 サリシフティ教授は、グローブボックスの前で、小生に「何か変わっていると感じるものはないか」と突然質問した。 きょろきょろしたが、特段変わったものはない。 彼は、グローブボックスのグローブが3つあることを指摘した。 なるほど、3つだ。普通は2つか、4つ。両手を入れるからだ。 彼の説明によると、「1人が実験していて、危険な状態が発生することがある。その時に、もう1人の人が助けを出すのに、3つ目のグローブが必要なのだ」と。 写真は3ヶのグローブとサリシフティ教授 研究室見学を終えて、研究室にもどり、ひとしきり今後の有機エレクトロニクス研究のあり方について議論した。 サリシフティ教授は、自分の書いた本や、最近の資料をつぎからつぎへと出してきて、熱弁をふるってくれた。 考えてみれば、朝早くから午後遅くまで、彼はしゃべり続けていた。 ヨーロッパの偉大な教授は良くしゃべる。いや、米沢にも良くしゃべる学部長がいるな。 #
by yuyz
| 2009-03-07 23:55
| 出張
2月26日、朝食を食べてから、ブラッドフード大学までタクシーを走らせた。
今日はコーツ教授との面談。 約束の10時より30分ぐらい早めに着いた。 コーツ教授の研究室では、すでに若者達が居て、小生達にコーヒーを入れてくれた。 まもなく、コーツ教授が来た。 最初に、小生からお礼と訪問の理由を説明した。 それから、コーツ教授は昼食を挟んで、4時間ぐらいしゃべり続けた。小生は、あまりにも過剰の英語にあたって、疲れ、後半は着いていけなかった。 なんと良くしゃべるイギリス人。 写真の右がコーツ教授 この大学では、コーツ教授達がやっている『学際研究センター』の仕組みと運営方法を知りたかったのだ。 彼は、施設を見せてくれ、研究員を紹介してくれながら、十二分に説明してくれた。 学際研究センターはブラッドフォード大学、リーズ大学、ダーラム大学とシェフールド大学の4つの大学が共同して、政府に申請して作った研究拠点である。 100社ぐらいの企業(日本からも数社参加)が会員になり、優秀な研究者を世界から集めている。 小生は、1人の研究者に目をつけていて、本人に「日本に来ないかい」と聞いた。 彼は、「興味ある。でも、ボスが………」 「OK。ボスとは俺が交渉する」と言って、コーツ教授と交渉したが、のらりくらりとはぐらかされた。 コーツ教授はブラッドフォードの学際センター長であると同時に、ブラッドフォード大学の研究担当副学長。 そこで、学生と教員の研究交流の話になったが、お互いに解決しなければならない問題がたくさんあった。それでも、前向きに考えていこうと約束して、ようやく分かれた。 その後、リーズにもどり、4時からリーズ大学で、インド人の研究者と面談した。 会った瞬間、これは駄目だなと思った。 しかし、彼の話を聞くにつれて、すごい研究者だと分かってきた。発想方法がユニークで、論理がしっかりしていた。しかも、実験も理論も見事にこなしていた。『Science』の雑誌にも見事な論文を掲載していた。 「合格だ」 彼に、山形大学での研究環境と仕事内容を示し、「山形に来ないか」と問いかけると。 彼は、「興味がある」と答えた。 お互いのこれからのスケジュールを話し合って、1時間余りの面談を終えた。 また、リーズ大学の物理の大御所であるワード教授に久しぶりに会った。 彼は、81才になるのに、現役の教授をしていた。博士課程の学生と企業との共同研究をしていた。どこに行ってもスーパーマンがいるものだと感心した。 本人は、「中国では小生が亡くなったことになっていたよ」と笑っていた。 写真の左がワード教授 つづいて、リーズの学際センター長のマクレーシュ教授に会いたかったが、ちょうど彼はダーラムの副学長に異動したところだった。 今は、オルムステッド教授がセンター長をしていて、小生につきあってくれた。 リーズ大学は十年くらい前に三ヶ月ぐらい居たところであり、内容は分かっていた。その後の変遷をオルムステッド教授から聞いた。 写真の右がオルムステッド教授 ブラッドフォード大学とリーズ大学は、フレデリコのテリトリー。我々の行動は全て彼に任せた。 #
by yuyz
| 2009-03-07 00:38
| 出張
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